【JP】コロナ禍のもとで亡くなった三人の親愛なる人たち (2)彌永康夫さんの死と教育について  by Tomoko  またいとこのブログ (今月は不規則に発信)Blog de deux cousines, Tomoko et ChiyokoMataitokos' blog (Cousins' Blog) is published irregularly this month. 第 2 章2021 疫病は続く  2月の放談


コロナ禍のもとで亡くなった三人の親愛なる人たち

(2)彌永康夫さんの死と教育について


2021.02.17 by Tomoko


彌永康夫さん日本の文化・学術の発展に尽くしたフランス語学者


またいとこのブログをChiyokoさんと連携して発信しだしてから、およそ8か月が経つ。彌永康夫さんが1月上旬に亡くなられたという知らせを、Chiyokoさんから頂いた。Chiyokoさんと私の絆を結んでくださったのが、Chiyokoさんのいとこ、私にとってもまたいとこの一人、彌永康夫さんである。メールには康夫さんが亡くなられる前日、弟さんにあたる彌永信美さんが康夫さんの、「できることは全部したと思う、皆さんにありがとうと伝えて」という言葉を聞いたのが親族の最後の別れであったと書かれてあった。素晴らしい。私も力のある限り、できることは全部して生きて行きたいと思う。

彌永康夫さんには、一度しかお目に掛かったことがない。お会いした時は東京のマンション形式のホームに一人で暮らしておられ、フランス文化論を含めた語学学習者の教育に終日尽くされていた。私の母は、学生時代、彌永家の隣に住み、いとこたちと親しくさせて頂いていたので、私たち子どもたちに、よく彌永家の親族の話がでてきた。彌永家の長男の数学者、昌吉さんには息子さんが三人おられ、健一さんがやはり数学者、二男の康夫さんがフランス語学者、三男の信美さんは宗教学者となった。

私のフランスとの縁から、康夫さんが晩年、通信講座で時事フランス語を教えておられることがわかり、受講する興味があったので、ある年の訪日中にお尋ねした次第であった。康夫さんはスタンダード時事仏和大辞典(大修館)をはじめ、フランス語学習書を多々執筆された。現役の1965年~2000年ころは、在日フランス大使館広報部に勤務し、歴代の大使をはじめ、大統領、首相、官僚など、訪日するフランス要人の通訳をこなしたほか、膨大な量の時事日仏翻訳を担当、日仏間の相互理解の促進に努められたという。

また、お父様の彌永昌吉さんの論文が解説として挿入されている、フランスの数学者ジャック・シュヴァリエ著、松浪信三郎訳の『パスカル』(17世紀の哲学者、数学者、キリスト教神学者)という、昭和19年発行の書が私の手元にある。旧仮名遣いで書かれており、ページがバラバラになりそうな気配がする。大先輩、彌永昌吉さんは10か国語を理解され、フランスに留学されたことからか、一家がフランスに縁がおありになる。康夫さんも信美さんもパリのグランゼコル(フランスのパリ高等学術院において勉強され、それぞれ、日仏間の文化交流に深く貢献されている。信美さんはフランス語による仏教語彙辞典『法宝義林』編纂に参加されている健一さんもフランス人数学者セールの著書を訳したりされている。一家のフランスとの関わり方は桁外れで、私などとても恐れ多い存在であるが、日本の学術者や文化人の位置が、極めてないがしろにされていることを思うとき、このご一家の功績について、言及しないわけにはいかない。

ちなみに、昌吉さんの義弟にフィールド賞受賞の数学者小平邦彦さんがいる。その二女の岡マリさんは、本ブログにChiyokoさんがその著書を紹介された。Chiyokoさんのお父様、彌永貞三さんも歴史学者として功績を遺された。Chiyokoさんの弟さんはポルトガル文学者の彌永史郎さん。彌永家やChiyokoさんと分かつ、私たちの先祖志立家の人物たちも興味深い人々が多々存在するので、いずれ彼らについても書いてみたい。

文化の向上を優先することは、人を国をよくすることをあらためて認識している。



■文化の基本は教育

教育には専門知識の習得だけでなく、個性を追求することが必要である。社会への思いやりがあり、頭と体を有し、特徴や長所短所を含めた個人の全体を育てるのが教育者・学者の役割である。真に教養のある人格を作り上げるためには、教育の方法を模索する必要がある。教育の方針は政治家などに任しては置けない。私自身の経験では、ヨーロッパで国際バカロレアプログラムを担当したことが、日本の国語教育の歪みを痛感させた。このプログラムでは、文章をたくさん読み、書き、話す訓練が基本となっている。そしてこの訓練が必ず実を結んだことに大きな喜びを感じた。

孫もいる最近になって、私は教育観が日本にいた20代までの時とがらりと変わった。人を見る目もがらりと変わったと言える。人それぞれの個性がある。その個性が望むこと、好きなことを思い切り伸ばしてあげられる場を作ることが良い教育環境なのではないだろうか。

定年になってから、やりたいことが自由にできる毎日で、時間が足りない。最近また、ピアノに凝り始めているが、何事も訓練無しで進歩はしない。小さいころ訓練を促すのは親の役目なのだろう。しかし、決して強制するのではなく、となると難しい。世の中でどれほどの親が、うまく子供の才能を伸ばすことに成功しているだろうか。ともあれ、今活躍している若いピアニストのお母さんたちの教育は、ただ厳しい教育には見えない。


■今の若いユーチューバーのピアニスト - フォルテ君のこと。

  フォルテ君とフォルテマザーの連弾風景


通称フォルテ君は音大も出ていない。高校まではピアノ教師の言う通りに弾いていて、自分の音を聞いていなかったという。しかし高校三年でコンクールに優勝するころまでに、人に言われるままでも、ともかく難曲を弾くテクニックは学んでいた。この人のいいところは、素朴さ丸出しで音楽で人を魅了するところ。テクニックがあるからそれができるのである。若くして結婚し、すでに赤ちゃんもいて、フォルテマザーがピアノを弾き、父親のフォルテ君が赤ちゃんを抱いてリトミックをしているユーチューブを見ると、フォルテ君は子供を可愛がるふつうのお父さんで感動的である。赤ちゃんがお父さんの顔をじっと見つめたり、だんだん声を出して反応し始めるのを見ると、生命の不思議が感じられて感動的である。フォルテ君は子供のころ厳しくお母さんにピアノをやらされていたようだが、今彼女もユーチューブで子育て相談などしているところなど、クラシック音楽の深さは、一部の洗練された家庭だけのものでなく、音楽は万人に向けての贈り物であることを知らしめてくれる。

練習風景を画像で流したり、素顔を見せてくれるこのピアニストの生き様は興味深い。もともと演奏家になることはあきらめていて、芸人になりたいそう。音楽を楽しむ、それが大切だ。しかしそこに至るまでには長い訓練が必要である。物事はゆっくり、丁寧に、時間をかけてやれば、どんなことでもできないものはない、と考えるのが私の今の教育観である。フォルテ君のような若い音楽家が、今の時代の画像を通して世の中の教育観を変えてきている。純粋な人柄と、本来、努力、忍耐力にたけた日本人の良さを持った新しいクラシックの考え方を広めているのが嬉しい。イタリア製のものすごくいい音のするフルコンサート・ファツィオリピアノを狭い場所に購入して何時間も練習するフォルテ君は、今は自分から音楽を楽しめるようになった。教育とは難しい。母親のスパルタ教育がなかったら、このような結果は生まれなかったかも知れない。

他の若きピアニスト、カティン君の即興能力は凄いし、亀井聖矢君の音楽性にも感動する。

老若男女を問わず、学問や芸術を発展してくれている人たちの価値を上げていき、文化程度を高めることが人々の毎日の暮らしを豊かにしていく。

コメント

このブログの人気の投稿