【JP】大山捨松のアーカイブ探し by Chiyoko またいとこのブログ(日曜日ごとに発信 11月12月は特別にTomoko, Nikhil による文学の日英バイリンガル版も発信第 1 章 2020 疫病の年  12月の放談


大山捨松のアーカイブ探し  Chiyoko 20201218


津田塾大学の創始者、津田梅子がわずか7歳で政府の留学生として米国へ渡ったことは、よく知られている。その時、梅子の他4人の女子留学生がいたことも、なんとなく知っていた。だが、その4人がどんな人なのかとか、その中の一人が山川捨松であったことなどは、あまり知られていない。

このステマツ、一風変わった名前だ。インターネットで調べると、母親が娘を留学させるに際し、「捨てる」が「待っている」という意味を込めて、幼名さき(咲子)を改め「捨松」と名付けた、ということだった。

URL(6) 大山捨松の生涯 ~その情熱と志~ - YouTube

さて、私はこの大山捨松という女性にちょっと関心を持った。それは、先日NHKの歴史番組で取り上げられたのがきっかけだった。というのも、NHKの番組では、彼女の自筆の手紙の画像がふんだんに画面で取り上げられていたからだ。自筆の手紙が沢山出てくるとなると、私としては見逃せない。この手紙はどこにあるのだろうか。興味津々、番組最後に出てくる関係者のリストを待った。そこには、捨松が卒業したVassar College Libraryの名前が出てきた。これがわかると、インターネットでの検索ができる。 

早速Vassar College Library Archives でググる。Vassar Collegeはすぐに出てきた。Library もすぐにわかる。Archivesもサクサク。このあたりは、米国の大学図書館所蔵資料の整理と検索システムの使いやすさにいつも敬服してしまう。もちろん、日本の大学図書館の所蔵資料検索システムも、探したいものの名称が特定されている場合はサクサクだ。しかし、探したいものの名称があやふやな場合の検索には、学校の卒業年次等の基礎知識は問われる。 

大山捨松の手紙をVassar College Archivesの目録から探し出すのは、私の場合「サクサク」だった。Wikiを見ると、大山捨松は、旧姓山川であるとか、捨松という名前は留学に際し咲子の名を改名させたなどの事情が分かる。それを踏まえれば、捨松は留学中の記録の中には、大山ではなく旧姓の山川の名前で登場する。まあ、資料検索にはこのような「基礎知識」が必要となる。もう少し専門的な用語ということで考えると、Archivesの中には、いろいろなコレクションがあり、卒業生の手紙類はAlumniというコレクションにまとめられている模様であった。

その次に、Alumniのコレクションはいくつもの箱に分かれていて、その箱の中身は卒業生の年次と名前のアルファベット順で収納されている模様だった。捨松は年齢から言って多分1884年くらいだろう、と見当をつけて1884年の卒業生の資料が入っている箱を探すと、Box5が出てきた。Box5を開くと、中はアルファベット順。捨松は当時はYamakawaだから、後ろのほうを探す。そうしたら、Yで始まるのは一人だけ、Yamakawaがあった。で、下の名前はStematzとある。

一瞬、これはドイツの名前ではないか、と思った。Stで始まり、語尾がtzというのは、いかにもドイツ語っぽい。でも、よく目を凝らしてその名前を見るとこれは確かに捨松と読める。Yamakawa Stematzは山川捨松であった。Vassar College Archivesの目録はここまでで、デジタル画像が出てくるというところまではたどり着けなかった。でも、間違いなく山川捨松の手紙類はこのVassar College Archivesに保管されていることがわかった。とてもうれしかった。

さて、以上は実はスマホで検索調査をした結果の成功体験である。ところが、数日たってから、今度はPC経由で同じものを検索したが、2時間くらい悪戦苦闘したが、捨松の手紙の所在を記した項目は見出せなかった。どうしてそうなったのかは分からない。コンピュータ世界は誠に不思議なことが起きる。口惜しいから明日、またPCで探してみたい。

尚、捨松は日本に戻って大山巌と結婚し、大山捨松となった。その後、1884年に鹿鳴館で日本最初の慈善バザーを開催し、1888年には宮中の洋化顧問掛を仰せつかったなどの記録が見える(寺沢龍『明治の女子留学生』所収の略年表)。今日女性皇族が伊勢神宮に参拝される際の衣装は、捨松が洋化顧問掛として助言したものかもしれない。


Wiki:大山 捨松(おおやま すてまつ、安政
7224日(1860316日)- 大正8年(1919年)218日)は、日本の華族、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字看護会理事として看護師教育を、また津田梅子旧友として女子教育を支援。スペインかぜの予後が優れず死去。


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