【JP】ペスト文学  by Chiyoko またいとこのブログ(日曜日ごとに発信)第 1 章 2020 疫病の年  10月の放談



 コロナ禍で籠城、ペスト文学に親しむ
       
   2020.10.18 by Chiyoko  


                              

(1) A.シュティフター『石さまざま』より『みかげ石』


●図書館の本を借りる

2020年はコロナ感染防止のため、4月からずっと在宅の日々が続いた。カミュ『ペスト』を読んでみようかと近隣図書館の蔵書を検索した。お目当ての本、カミュ『ペスト』はすぐに探し当てたが、借りたい人が私の前になんと30人待ちという表示が出てきた。そこでカミュ『ペスト』はあきらめ、別の本を探すことにして、「ペスト、文学作品」と検索。その結果、欧州を繰り返し襲ったペスト禍を題材にした作品をいくつか見つけ、予約した。しばらくしたら、図書館から「ご希望の本が準備できましたから、×月×日までに市民図書室迄おいでください」というメールが届いた。

公共図書館の貸し出しシステムは実に便利である。わが町の場合、市立図書館の蔵書はインターネットで貸し出し予約ができる。その上、予約した本は数日中にウチの近所の公民館併設の図書室に配送され、そこで借りだすことができる。

コロナで公共施設が休館となる直前の4月に、私はこうして図書館の本を借りた。まもなく図書館はコロナで休館してしまった。借りた本は図書館休館中は返却しなくてよいことになり、その結果約一か月半の貸出期間ということになった。このゆとりは、コロナ休みの恩恵であった。

● 『世界の文学⒕ ケラー・シュティフター』

さて、図書館から借りた本のうちの一冊は、中央公論社『世界の文学⒕』だった。所収のシュティフター「石さまざま」第一作の「みかげ石」は、かつて学生のころに読んだ作品。作品の名前にはかすかな記憶があったとはいえ、内容はすっかり忘れていた。それでも、若い時に丁寧に読んだ作品だけに、改めて読み進むうちに、その文章の一つ一つが懐かしく親しみ深く感じられた。だが、その親しみ深い文章を記憶と共にたどるうち、どうも何かが違うと思い始めた。なにがそんなに違うのだろうか。その違和感は、版面のせまさ、だった。どうやら本の版面を取り囲む余白の部分が私の記憶に比べ「せまい」のがその原因らしいと気が付いた。

●同じ本、古書で購入

余白が狭い本を手に、あれこれ思いめぐらすうち、同じ本を古書店から購入してみようと考え付いた。こうなると、やはりアマゾン、同じ本はすぐに見つかった。新本ではなく、古書である。数日後に届いた『世界の文学⒕』は、箱こそ日焼けしていたものの、本体はビニールカバーがかかっており、月報もしおりも挟みこまれ、頁を開くたびにぱりぱりと音がする、まさに新品だった。

●本を比較する

私の手元にあった2冊の『世界の文学⒕』、その外観を比較したのが、左の写真。改めて2冊の本を並べてみたら一目瞭然、図書館の蔵書は古書店から届いたものとは装丁が異なる。図書館の蔵書は、再製本が施されたもの、古書店から購入したもの(写真左)は、表紙に金色ふち飾りが印刷されているオリジナルに対し、図書館のもの(写真右)の表紙には印字も飾りも印刷されておらず、のっぺらぼうだ。図書館のものはわずかに小さい。図書館の本は再製本に際して汚れや傷みを除くため、周辺をわずかに切り落とす処理が施されたためと、2冊を比べてはっきりと確認できた。

● 「みかげ石」の中のペスト

文学作品「みかげ石」に登場するペストの姿は、主人公である小さな男の子がお祖父さんから聞いた昔話のなかにある。幼い男の子はある日お祖父さんと森を歩く。その道すがら、お祖父さんは、そのまたお祖父さんから聞かされたペスト流行のころの昔話話して聞かせる、という内容。このテーマがあって、ペストの文学作品という検索にヒットして、私は五十年ぶりに作家、シュティフターと再会できた。話が長くなったけれども、私とこの本とペストとコロナの関係は、ご理解いただけただろうか。

「みかげ石」の舞台は十九世紀初頭と思われる。文中の幼い男の子は、作者自身が投影されているようだ。お祖父さんと男の子が森の小道から開けた場所で周辺の山々を見渡し、その名前を確かめ合うシーンは、淡々と語るさまが、地図を見るようですがすがしい。

文中のお祖父さんは語る。自分のお祖父さんの時代にペストがはやり、これを避けようと山に逃げ込んだ一家が、結局はペストで小さな男の子一人を残し全滅した。一人残った男の

子は一人山をさまよい、かわいい女の子に出会い、山を下りる。そのころすでにペストも収まり、ペストが収まった時の合図ののろしが上がった。しかし、山の中に逃れた人々の中にその「のろし」の意味を理解できる人は、もはやいなかった…。男の子は成人して、女の子と結ばれ幸せに暮らしたとか。

●ペスト終焉の合図と高レベル放射性廃棄物地層処分の課題

記録とその保存にかかわる私には、このペスト終焉の「のろし」のくだりがとても印象深い。決めておいた合図が、当事者がいなくなってしまったために理解されず、意味を失ってしまったという現象がそこにある。

今日本で、北海道の自治体が原発ゴミの最終処分場を引き受けようとする動きが出ている。原発ゴミは高レベル放射性廃棄物と呼ばれ、地下深い所に埋めて放射能の半減期をまつ「地層処分」という処分方法が想定されている。北海道の自治体では、この地層処分を行う場所として手をあげようか、と考えているらしい。しかしその半減期というのが10万年かかるともいわれている。その地域と場所が再び安全になるまでには、10万年かかる、ということである。地下に放射性廃棄物を埋めて「処分」すると、そのあたりはむこう10万年は放射能汚染地域となり、その危険性は10万年は去らないということだ。10万年の間、その地域が危険な放射能汚染地域であることを、住民はもちろん、そこにある生きとし生けるもの全てに対してどうやって知らせ続けることができるのだろうか。もし、放射能半減期が10万年でなく1万年だとしても、1万年後までは危険性は去らない。その地域の生きとし生けるものの1万年後の姿をどのように私たちは想像することができるのだろうか?

現代の知恵の限りを尽くして放射能汚染の危険を知らせる方法を講じたとしても、その知恵が1万年後の世界に正しく伝わるものだろうか。石さまざまのなかでは、ペスト禍発生後数年して、ペストが収まった。町に住み続けた人は、ペスト終焉を知らせるべく、かつての約束通り森に避難した人々に伝えようとのろしをあげた。しかし、森に避難した人々はことごとく死に絶え、そののろしの意味を理解できる人はもういなかった、という。

10万年、高レベル放射性廃棄物地層処分とその危険性を知らせ続けるためにどんな方策があるのだろうか。言語は何を用いればいいのか。日本語の歴史はせいぜい1500年くらいだから、これから先もう10万年この言語はつかえるのか?日本人は、日本国はいつまで続くのだろうか?人間という動物は1万年後まだ地球上にいるのだろうか?

高レベル放射性廃棄物の地層処分は、地球そのものを人間には制御できないほどの長期間にわたり深く汚染するものではないだろうか? 汚染は限定的な地域では収まらず、時間の経過とともに広がり、地球は全体として放射能汚染環境をもつ星になっていくかもしれない。そんな不安に駆られてしまう。のろしの意味は、今ならわかる。しかし、5年後にはわからなくなるかもしれない。100年後には多分分からないだろう。1000年たったら、のろしを上げる人もいないかもしれない。10000年後、汚染を意識するものも存在しない可能性が高い。嗚呼。

■後日譚

中央公論社『世界の文学 14』を入手したものの、日本語だけでは少し物足りないような気持ちになった。そこで、ドイツのアマゾンを検索して、ドイツ語原書を入手した。10日ほどで本が届いた。手にとってもドイツ語だからあまり読めるような気はしないのだが、『石さまざま』はBunte Steineだったとか、その中の「みかげ石」はGranitだとかいう程度のことがわかって、うれしかった。そして、何より表紙の絵がとてもステキで、大いに気に入っている。本棚の装飾になるかしら。

(20201018 chiyoko)

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