JP平穏な生活が侵されていく by Tomoko またいとこのブログ(日曜日ごとに発信)第 1 章 2020 疫病の年     9月の放談 


 平穏な生活が侵されていく!


           2020.09.27 by Tomoko  


La version française de ce blog sera publiée dimanche prochain(04.10.2020)

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(日本語のブログはTomoko,Chiyokoが交代で日曜日ごとに発信します。フランス語版はTomokoのブログのみ隔週の日曜日発信です。)



■散歩の途中で出会った村人たちとの立ち話―カント二エへの不満

散歩に出ると、犬を連れた村人たちや顔なじみのご近所の人達と出会って、一見つまらない愚痴を交わすことも多い。自然を破壊するカント二エに対しての苦情もその一つである。


フランスの村には税金で雇われている道路作業員
(カント二エ)が数人いて、道の清掃をしたり、木
や花の剪定や手入れをする役目を担っている。私の住む村ではそのうちの一人がとても変人なので有名である。変人なのはかまわないが、その人と接すると不愉快になるのは困る。大体、こちらが挨拶しても、そっぽをむくような人で感じが悪い。

この人とたまたますれ違った時、クルミの木の伐採のことで話しかけたら急に怒り始め、以来、私は敵扱いされている。その時は、長い外国暮らし中、初めてと言っていいアジア人に対する差別発言を受けた。あたかも疫病はアジア人が世界中にばらまいたと言わんばかり。近所の村では、並木がアジアから入り込んだ病気のため、全て切り倒すことになったとまくしたてたのである。私は敵はつくらない、と決めているのだが、あきれはててしまった。

ある日、このカントニェが私の家のはす向かいにある、谷のように傾斜した広い農地に生えていた古く立派なクルミの木を二本、電気のこぎりで切り倒してしまった。ありえないことだ。

私の住む村は、大木の美しい、ちょっとした国立公園のような個人所有の森と、200年余り前に建てられた、シャトーと呼ばれる大きな館が残っているのが特徴である。私たち家族がニューヨークから、バンコック経由でヨーロッパに戻り、行き着いた今の家は、このお城の一帯にある、やはり古い石の家である。この辺りは、古い遺産ということで地方自治体の財産に指定されている。

例のカント二エは、勤務時間以外に私的に仕事をしてもよいことになっており、休暇中は、村人たちに頼まれて木を切ったり、柵を巡らしたりする仕事をするのである。

今週月曜日は一日中、電気のこぎりでブーンブーンともの凄い騒音をたてながら、谷間の周囲に茂った棘のあるベリー類の低木をそぎつくしていた。クルミの木といい、低木といい、人の迷惑になるところではない場所で、次々にこうして樹木がなぎ倒されたり、刈りこまれたりしてきている。大地主の所有者に頼まれての仕事とは言え、態度が大きい。

子供たちが小さかった頃、村のこの森には自由に入れた。彼らは、天気が良ければ大木の大枝に乗っかってゆすって遊んだり、冬には雪が降れば、傾斜のある所で、そり遊びを楽しんだ。子供たちは、そんな暮らしをしていたから、都会で育った子供と違う、自然を好む大人になった。

それが今は、自然の残る一帯が有刺鉄線で囲われ、散歩すらできなくなった。大地主は維持のためという名目で、徐々に大自然を共有させてくれないようになった。幸い村には他にも自然が残っており、救われている。しかしながら、村人の行政に対する関心は極めて薄くダイナミックさに欠け、村の美化に対して諦めと無関心が圧倒的に強いのは残念である。


MLさんの苦痛

近所に住むMLさんは最近、築200年以上の自分の家や納屋を不動産開発業者に売った。フランスのオークションサイト(ル・ボン・コワン(le bon coin))では中古品がベビー服から一軒家やお城、車の売買まで可能である。そこにMLさんの家屋が広告された。

MLさんのような、ワイン畑を持つ、もの凄い働き者でやってきた人が、今は古い家や納屋を維持しきれず、建具、家具、石、木材や金属製の建築材料など、全てを片付け、処分しなければならないのだ。村の昔の様子を話してくれ、彼の家と同様に古い、我が家の歴史もよく知っている。

彼がまだ幼いころ、村のシャトーにはバロンが住んでおり、使用人がたくさんいた。庭の手入れをする人、馬の世話専門で母親と暮らしていた一生独身の男の人のラロという名前は、私たちの家屋の一部に(chez Lalo)名付けられて残っている。他にも、我が家には何家と何家のどんな人間が住んでいたとか、実に記憶が鮮明で、そんな話をするときの彼は表情が明るく生き生きとし、眼が輝いている。その村のシャトーは、再再売りに出され、今は儲け主義一点張りの不動産開発業者が買い取って、いくつかのマンションに分けられ、不当な高価で売りに出されている。世の中、不当なことが多いのは嘆かわしい。

石の古い家屋は頑丈ではあるが、家の健全な保存のためには瓦や壁などに補修、改修工事を施す必要があり、その費用は莫大となる。


ML
さんの3人の子供たちは、彼の古い家屋を引き継ぐことに興味がない。結局、家の片づけも、MLさんがほとんど一人でやっている。70代のMLさんだが、重い木材や金属類、石やドア類などを区分けし、まとめている最中である。引き取り手がいない場合、皆ゴミ処理場(déchetterie)まで運んで捨てて来るという。彼が一生かけて築いた家屋の付属品がこのような運命に置かれていることに、私は自分の将来を見るようで、胸がとても痛んでいる。

いずれ我が家の改修や、補修に使えるかと、私は石の標識、昔の粘土でこしらえられているふたつ穴があいていて、ワインの瓶がちょうど保存できるような大きなレンガをたくさん、MLさんにトラクターで運んでもらった。今の建材は、昔の建材のように上等ではなく、安っぽい。

MLさんのところで、知り合いの村人に久しぶりで会った。子供が小さかった頃は、学校の関係で、同じ村人である父兄との繋がりがあったので、ずっと村に住んでいる顔見知りの人はいるのだが、私が仕事をしていた時期以来、近所づきあいはおろそかになってしまった。

「こんにちは、この辺に住んでいる方ですか?」「ええ、私はあなたのこと知っていますよ。」「え?」「私ですよ、エミリーのおじさんの。アニーの夫の。」

何だ。野球帽を被っているせいで、また、ちょっと会わない間に、帽子からはみ出た髪の毛も白くなっているので誰か認識できなかった。彼の奥さんの家系は、村の中でも古く、bioの農場を経営していたり、役者や写真家や音楽家など、自由人が多く、私は好意的に思っている。お婆さんは教会の世話人のような役割をしていた。また、そのご主人は村長だった。

「皆さんお元気ですか。」彼の表情が曇った。「ボリスを知ってるでしょ?」「まだ乳母車の赤ちゃんだったときにあったことがあるわ。」「今彼はもう18歳、料理人になってね。」「わー、時の経つのははやいものね。料理する人大好き。」「ジュネーブの高級ホテルHôtel des Berguesの最上階にある日本レストランでつい最近まで働いていたんだ。資格もあるし、料理がうまいのに、コロナ禍の影響で首になってしまってね。」そういえば、この村人はこちらに出張している日本企業で働いていた。

フランスでもあちこちで、こんな話をきく。突然襲ってきた、人生の狂い。コロナは至る所で人々の生活に影を落としている。一方不当なことは依然としてまかり通っている。一体今世界中で起こっていることは何なんだ。コロナが全てを一変させたのではなく、人々の病気の恐れを利用して、目に見えない圧力が世界を覆っているという感じだ。今世界は狂っている。人々はもはや、移動の自由や内面に関わる自由を制約されることに対してさえ、強い反発をしなくなっている。

今年、コロナがはやり始めて、それまで意識しなかったことで露呈されたことはたくさんある。よく考えてみたい。自分の身の周りが、いかに一部の人たちの利権の犠牲になっているかを。

中でも、疫病への恐れを増大させて新しいアプリで儲けに繋げようとする悪徳デジタル大企業、ワクチンで病気が防げると信じている多くの人を餌食にしようとしたり、超高額な薬を病気の人の弱みにつけ込んで売ろうとする薬品産業の支配を私は懸念する。ここでは日本に特徴的なデジタル化の問題を取り上げる。


デジタル化への警告

コロナを封じ込めるため、人々はさらなるデジタル化により行動を追跡することが必要だと主張するようになった。デジタル権威主義体制に賛同するのが当然のように考えられ、私たちの日常は広く監視されるようになった。しかし監視によりコロナが制御されることで人は幸せになるだろうか。コロナウィルスの型は変化しており、ワクチン一種がずっと効き目があるとは思えない。疫病など、他の不治の病と同じで、消えることはない、とさえ思う。

特に日本では、デジタル化の風潮の波に人々は疑いもなく乗り、他国に比べIT化が遅れているとストレスをためている。日本では最近の内閣の交代により、デジタル庁なるものが、無教養な新首相の一存で創設された。



技術発展がもたらす専制体制

アプリの発展で、人々がオンライン上で私的な情報を自ら流すようになった暮らしでは、 私たちの行動データから行動パターンが予測され、テクノロジー企業がその情報に基づいて収益をあげ、影響力を高めるようになる。こういう状況は民主主義に反し、個人の権利や利益、社会集団の自立性や自由な活動を認めず、全てを統制下に置こうとする独裁につながる。仕事やコミュニケーションのオンライン化が進むことは、一見便利そうだが、実は認識のないまま、私たち個人はテクノロジー企業による個人の支配に自ら貢献しているのだ。

技術よりも倫理的思考を

新型ウィルスの問題が普遍的で国境を越えた問題であるという、いわば人類共通の課題だという意識は確かに生まれた気がする。こういった倫理意識を、コロナ問題にとどまらず、大災害をもたらす、気候変動など大きな問題にもあてはめていくことが必要なのではないか。人類共通の問題の解決のため、知性ある連帯と協力が望まれる。



フランスではストップ・リンキーという動きが今市民の中で起こっている。国の電力会社が、各家族に対し、いつ何に電気を使ったかが記録されるデジタル装置を強制的に設置しようとしていることに反対する運動である。家庭の中まで行動が監視されることになるなんて酷い。

ヨーロッパに暮らす日本人として、日本がアメリカにばかり目を向けず、歴史の長いヨーロッパ的な考え方にも関心を持ってほしいと思う。複合的なヨーロッパでは、国民、階級、世代などの分断を乗り越えた普遍的な精神が必要、単純な思考ではものごとへの対処は不可能である。




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