JP古いもの、昔のものへの憧れ/8月に想う広島 by Tomoko  またいとこのブログ(日曜日ごとに発信) 第1章 2020疫病の年 8月の放談   

                 


古いもの、昔のものへの憧れ / 8月に想う広島

2020.08.15 by Tomoko 


古いもの、昔のものへの憧れ  

石の家の地下室(Cave)の開口部(soupirail)に、換気できる飾り窓をつけるというので、時代物の家の解体屋の展示場に見に行って来た。私の古い建築、古道具への愛着はどこから来ているのかわからないが、これらのものには使った人の歴史が込められている。ともかくも、色や形が全くオリジナルで、今の物にはない重みや深さが感じられ、美しいと思う。フランスには、古いものを愛し、大切に使う、という価値観が日本よりも確かにあるのが嬉しい。



Chiyokoさん、Aiさんがジュネーブに来られた時も古道具市に一緒に行ったことがある。その日にはたまたま、有名なバイオリニストの死後に、一切の家財道具が段ボール箱にバサッと投げ込まれたものが売られていた。私はあるピアニストの母親が書いたサイン入りの貴重本やワイングラスを買ったが、Chiyokoさんはこのヴァイオリニストの家族が交わした手紙の箱を、ひと箱まるごと買って帰国した真のアーキビストである。ちなみに我が家ではこういった、人にとってはガラクタ、が私にはお気に入りの日用品として多く使われている。

8月。ヴァカンス気分のフランス人の中で、広島・長崎に想いを馳せる

今年はCovid 19のせいで特別ではあるが、私の周辺の近しい人たちはテレワークを続けながらも、休暇気分である。しかし、日本人の私は、8月ともなれば、原爆が投下された広島・長崎に想いを馳せる

広島との縁

父が官吏で転勤が多く、私は小学生のころ家族と広島にも数年間住んだことがある。官舎は市のはずれにあり、背景に見立山という低い山、近くに太田川という山や川に恵まれていた。この山に自転車で登り降りたり、川では泳いだりして遊んだ。今年動画で見た、現松井一實市長の平和祈念式典での平和宣言に感動していたので、彼が同じ小学校出身と知ったとき、懐かしく思った。被爆二世であるからだろう、彼は原爆の恐ろしさを知っている。核兵器禁止条約の批准を、政府が聞き入れないにも拘らず、再度訴えている。これに関しては、長崎の田上富久市長も同様である。松井市長は、当然ながら反原発もはっきり表明している。両都市で市民を標的にし20万人以上ともいわれる罪もない人びとを即死させたこの戦争の狂気に、心が潰れないわけがない。

原爆投下時の粟屋仙吉広島市長

今から75年前の原爆投下時の広島市長粟屋仙吉を、年代も違い面識はなかったが、私の父は深く尊敬していた。広島転勤時に親近感が募り、長い時間をかけて『粟屋仙吉の人と信仰』という本にまとめてくれている。粟屋さんは父と同じく官吏で、内村鑑三が提唱した父と同じ無教会主義のクリスチャンでもあり、大阪府警察部長の頃の1930年代の終わりに、ゴーストップ事件と世に騒がれた、軍の暴挙に果敢に闘い、その誠意に満ちた人格が、人の厚い信頼を受けていた方である。

一家5人の被爆

粟屋仙吉さんは市長公舎で被爆し、孫、息子の一人と共に即死。翌日見分けもつきにくい白骨の姿で発見された。粟屋夫人は別の部屋にいて家の下敷きとなり、口は裂け、顔がゆがんでしまったようなひどい負傷をおったにも拘らず必死で這い出し、付近の神社の境内まで避難した。その後一時は受けた傷も癒されたかのように見えたが、被爆後遺症の症状が次第にあらわれた。

父が著書で引用している信憑性のある『広島原爆史』―中国電気通信局、原爆十周年記念事業による編纂、によると、「原子爆弾の人体に及ぼす影響は、ただ単に瞬間的破壊力、殺傷力だけでなく、その後、日を経るにしたがって、無傷だったものまで次々と死亡し、その被害の永続性が明るみに出されて、新たな恐怖を呼んだ。これは放射線の特殊作用によって造血機能を破壊し、白血球を極度に減少せしめ、かつ、内臓出血等を起して、暫時呼吸に非情な困難を来たし、悶死するのであるが、その症状はたいてい耐えがたい疲労感のあとに高熱が出る。中には敗血症のように歯茎やくちびるから血が出る者もあるが、全身に紫斑点が出て、頭髪がボロボロ抜けるのがほとんど共通した症状であった。原爆症はその日広島にいた人だけでなく、あとから救援のため、または人を捜しに入って来た人の中にも表れ、そのため死んでいった人もたくさんあった。」とある。

夫人は86日の原爆投下のちょうど一か月後くらいにご主人の後を追われた。お嬢さんの一人は当日東京にいて、被害を免れたが、母親の看病のため広島に赴き、放射能を多量に吸って被爆し、同年11月に亡くなられた。(康子さんについてはジャーナリスト門田隆将著の評伝「康子十九歳 戦禍の日記」参照)

家族5人が数か月のうちに次々に命をおとしたのである。戦争がいったんおきれば軍人も、罪もない市民も区別がなくなる。被爆が身内に起こったことのように考え、このような惨事を2度とくりかえさないことを誓いたい。コロナだって原発事故だって、私たちがいい気になって暮らしていたとき、突然襲ってきたではないか。

■ミッション系の文化人たち 

 広島の家の向かいにミッション系女学院のアメリカ人宣教師のマクミラン先生が住んでおられた。元からの銀髪で、いつも身綺麗、人柄も、話す日本語も上品なこの伝道者は、皆から尊敬されていた。私たち子供たちにはとても優しかった。また、ミッション系の幼稚園もあり、妹たちが通っていたが、園長の宗像先生は家族とともにブラジルに移民された。声楽が得意で、椿姫かカルメンのオペラの男性の主役を務められた時、母が連れて行ってくれたのが印象深く残っている。最近になってYouTubeで、何かの拍子にブラジル人の合唱団の指揮者がムナカタという女性だったのを知って調べたところ、やはり広島時代の宗像園長のお嬢さんだったことが判明し、感動した。息子にブラジル人の友達がいるので、いつか伝言を託したいと思っている。

コロナ事情で感じる秩序について少し

コロナ蔓延を国政でどう収束させるか。夏になってから、フランスでも感染者が増加している。屋外の多くの場でさえ、マスク着用が義務になっていたり、店舗などは開いているものの、今のところ10人以上が塊にならないように、と政府のおふれがでている。フランスはひたすら自由を問題にし、命令に屈従しない国民だと思っていたが、黄色いベスト運動の時のような、また、アメリカで見られるような暴力的な騒ぎにならない。命令に従わなければいけないという気持ちからではなく、自分の判断により総じて大人しく秩序を保っている気がする。共和国の秩序は、国民の自由や安全の自発的希求からなりたっているようだ。歴史への反省や記憶を大切にする傾向も強く、フランスらしい秩序を保つ要因となっている。


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