【JP】祖父母と私の繋がり by Tomoko またいとこのブログ(日曜日ごとに発信) 第 1 章 2020 疫病の年  8月の放談  


 祖父母と私の繋がり

             

  2020.08.29 by Tomoko    



■1919年アメリカに渡った祖父 
私の手元に一枚の絵葉書がある。母方の祖父が1920年のニューヨーク滞在中に三歳の息子に宛てたものである。表の絵の側には、ニューヨークはマンハッタン南端の摩天楼が、半ば写真のように青い色調で印刷されている。2001年のアメリカ同時多発テロ事件時には聳えていたワールドトレードセンターのツインタワーは、もちろんまだ存在していない。手前には、超高層建築に見惚れて一旦進行を止めたかのような、不動の姿勢の小さめな船が描かれている。裏側には、祖父の自筆の文が、片仮名で記されている。「オフネヤオイエノオーキーモノがタクサンデス ボーヤモオーキクナッタラ ココ二オイデナサイ ツヨシ・・・」




1919年から1920年にかけて、祖父はアメリカ各地を旅行して回った。手記ともいえる手帳に人との出会いを含めた旅の様子が電気工学技師としての図面や英語で綿密に記されている。小さな一冊だが、ぎっしり内容が詰まっている。

■戦死した叔父
絵葉書が物語るものは、膨大である。祖父の生きた時代と空間が、今文章をしたためている私の生きている時代と空間にまで重なっていくのだから。祖父が、初めて見る西欧の国から受けた感動を伝えようとした小さな「ボーヤ」は、大きくなってもアメリカに行くことはなかったが外国には行った。自分で選んだわけでなく、叔父はフィリピンに出征し、フィリピンの山奥で戦死した。終戦直前が死亡日と推定されている叔父が、どこでどう亡くなったのかは、まったく定かではない。当時は幼児だった息子の、後のこのような悲劇的最期を祖父母は予期するはずもなかった。

祖父母

近代人だった祖母のこと
幼かった長男、三女を病気で失った経験のある祖母に取り、たった一人の息子となった叔父の戦死は、張り裂けんばかりの悲しみであっただろう。子を失った悲しみが続いたことが原因で、祖母はすっかり病弱の人になってしまった。祖父は彼女の健康のために別府に家を買い求め、住み込みのヘルパーさんをつけて、祖母を住まわせた。

別府の家は窓に囲まれた、お風呂場の温泉湯が常に太い蛇口から出ていたから、その日本家屋に入ると硫黄の匂いがした。祖母は未亡人になってからも、その家に長く暮らしていた。夏休みなどに家を訪ねると、幅広い黒光りのする廊下から、広いガラス戸を通して、庭が見えた。この木造建築の中で、細身で小柄の背筋のぴんとした祖母が、着物の衣ずれの音をさせて、もてなしてくれた。

祖母は勝気で万能だったが、早くから女性の自立を意識していたと思う。声楽を専攻したかったらしいが親から許されなかった。Chiyokoさんのお祖母様を長女とする武家の四女として生まれた祖母は朝、弟は寝坊しても怒られなかったが、女は箒で顔を掃かれて起されたと聞く。ユーモアたっぷりの、生き生きした利発な人だった。時代柄、女性が職場や専門分野で頭角をあらわすことは難しかっただろうが、会う人に強い印象を与えた人であったと思う。祖母の前で、私など寛ぐより、緊張することが多かった。

祖父母の住居は愛媛県新居浜市にあったが、娘たちが東京の女学校に通うようになったりしたこともあり、別々に暮らすことも多かったようである。Chiyokoさんのお祖母様一家の東京高輪の家と、当時はまだ学生であったが後戦死した先述の叔父や、私の母を含める姪たちが住んでいた家は向かいにあり、母たちはChiyokoさんのお祖母様にとてもお世話になっていたと思う。また、女学校には従姉妹たちは一緒に通っていた。ちなみにこれらの家は戦争で焼けてしまった。

Chiyokoさんのお祖母様と私の祖母の兄弟姉妹は全部で8人いたと思う。その子供たちも含め、一家は私の知る限りでも、数学を初めとする・フランス語・ポルトガル語・歴史・宗教分野の学者や、企業・銀行界などで世に功績を遺しておられる。私の祖母の家系は叔母たちと母という女性だけが生き残ったが、子孫も入れると、ピアノが専門という人が数としては多い。また、親族がオーストリア、アメリカ、インドネシア、ドイツ、オーストラリア、カナダ、フランスなどの海外に散らばって永住しているのも特徴かもしれない。

祖母は息子を戦死で失ってから、羽仁もと子の影響を受けて無教会主義のキリスト教徒になり、生涯信仰が中心の生活を送った。別府在住中に、自宅でキリスト教の日曜集会をもつようになり、終生それを続けたことが彼女の偉業である。神道の、一見厳格そうな祖父が、一見か弱そうな祖母が放つ力強さに影響を受けただろうことはいうまでもない。祖母がキリスト教への関心を促すと、「待ってろ」と答えたそうである。祖父は女性の威力に圧倒されるところもあったのだろう。娘たちの教育も、それぞれ好きな専門を選ばせている。

アメリカ行とラッシュさん
祖父がまだ若いころ、アメリカに派遣されたことがあったことは上述したが、滞米中英語が不自由であったことを痛感した祖父は、帰国数年後の1924年、ラッシュさんというアメリカ人女性を招き、愛媛県の社宅の一室に家族の英語の家庭教師として同居させた。ラッシュさんは、祖父の関係した会社の子女たちの英語教育に携わったが、その後上京、学校の教師などされたらしい。太平洋戦争中にも日本に留まり、そのため、滋賀県の敵国人の収容所に収容され、ちょうど終戦を迎えた19458月には病気になられていた。“Peace, we have peace again” という言葉を聞きつつ、かすかにうなずいて亡くなられたという愛情深い親日家であったようである。
                      祖父母と家族。ラッシュさんと

親族の西洋への関心
祖父のアメリカ行きによる西洋文化の吸収が、親族に大きな影響力を与え、一家に共通した西洋嗜好に繋がったと思う。神道で毎朝ポンポンと手を打ち、祈祷していたという祖父が、アメリカ人を家に入れたのだから、大きな変化である。

端出場水力発電所
先日新聞のデジタル版で、愛媛県新居浜市端出場水力発電所のことが報道されていて胸が熱くなった。



祖父のころ、別子銅山製鋼所の、四阪島への移転が検討されていた。その際問題となった、大量の電力を十二哩の距離にある島にどうやって送るか、その実地研修をするため祖父はアメリカに七か月滞在した(1919-1920)。研修後、水を集め、斜面の落差の水圧を利用した端出場水力発電所が彼の起案、作成した図面により建設され、長距離の海底送電にも成功したことは彼の最大の業績といえる。20キロメートルという、当時としては世界最長の海底ケーブルであったそうである。おりしも原子力発電の危険性が問題となっている今、このような自然エネルギーによる発電で地域が潤った事実は、興味深い。


端出場発電所は赤レンガにステンドグラスのような窓のある、とても芸術性の高いデザインで、ドイツのシーメンス社の発電機も含め、美しい建物である。環境問題が問われる今、当時は需要に見合ったクリーンなエネルギーをもっと真剣に探っていたような気がする。

戦後75年にあたって
九州高鍋藩の一藩士の家系に生まれた祖父は、敗戦後の日本での財閥解体指令に基づき、退任し、郷里に戻った。当時の価値観の逆転の時代で人々は指針を失っただろうが、その頃のことは誰も口にしたがらない。祖父が大企業の責任者であったことで、戦争に積極的に協力したということになるのだろうが、息子の戦死を嘆く祖父の気持ちは、反対だっただろうと思う。敗戦までは挙国一致で国のために尽くさなければならないと人々は洗脳されたのだから、恐ろしいことである。

フランスから祖父の家を訪れる
Chiyokoさんと交流が始まって、お祖母様の設計された軽井沢の別荘が国登録有形文化財に登録されていることを知って影響を受け、その後私の祖父が遺した宮崎県高鍋の生家も、同じく国登録有形文化財に登録することが叶った。家は、江戸後期に建てられた簡素な武家住宅であるが、私が毎年フランスから訪れ、管理や活用に努めている。この祖父の住居を通して、私にはもう一つの世界が開けている。祖父と私との絆は、二人の間にだけでなく郷土にも広がった絆で、普遍的なものである。跡継ぎを失った祖父がかつてこの家に住み、いろいろなことを望んだこと、また、私も住み、いろいろなことを願っていることで二人は共業しているのだと思う。歴史とはこうして作られていくのではないだろうか。


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